今回は、室町時代の次の戦国時代から現在までの租税史を見ていきます。
戦国時代を経て、戦国の混乱期を経て天下統一を果たした豊臣秀吉は、1582年から7年間にわたり、に全国の土地を調査して「太閤検地」を行い、農地の面積だけでなく、農地の良否や収穫高などを調べて、年貢を納めさせるようにしました。この太閤検地は、我国の税制史に重要な変革をもたらしました。
太閤検地は同時に課税を逃れるための「隠田」の摘発という狙いもあったようで、見つかった場合にははりつけの刑に処せられたようです。この検地の考え方、手法は明治初期の税制である地租改正の導入の際にも踏襲されています。
当時の税率は、2公1民で収穫の3分の2を納める高いものだったのでこの頃から年貢は重くなり、農民一揆が頻発するようになります。
※太閤検地 … 全国の土地の善し悪しを調べて、年貢取り立ての基準、つまり石高を定め、キチンと年貢を納めさせるために、検地帳を作って、田畑ごとに面積や石高、耕作者などを村別に登録しました。」今で言えば、「石高」といって農地の生産力に応じて税を課しました
荘園制が崩壊し、大名領国(藩)を単位とする封建体制ができあがり、徳川氏が全国を統一し、江戸幕府を開きました。
豊臣時代の検地の成果を引継いだ徳川時代になっても、田畑の収穫・石高に応じて農民に課税するシステムは、そのまま受け継がれ、この年貢が税収のほとんどを占めていました。税率は、幕府が基準を決めていなかったので、大名ごとに異なっていて、4公6民とか5公5民といわれていました。
また「雑税」といって各藩ごとにも税を課すようにもなりました。税は、田畑に課税される年貢の地租が中心で、そのほか助郷役などの負担もありました。また、商工業者に対する税も、免許税や営業税のような運上金・冥加金といったかたちで課税されるようになったのも、江戸時代の特徴となっています。
※五公五民 … 収穫物の半分を領主の税収入とし、残り半分は農民の収入とする税率。
※助郷役 … 街道の宿駅に応援の人足や馬を提供する税でした。
※運上金・冥加金 … 株仲間と呼ばれる同業者に商売の特権が与えられるかわりに納める税でした。
※運上・冥加 … 商業、工鉱業、漁業、運送業などの営業者に課税された江戸時代の雑税。運上も冥加も同じ意味で使われていた。
明治時代・前半
時代は変わり明治になると、政府は税収の安定化を図るために、近代的な租税制度の改革に着手しました。中世以降納税の手段は年貢米などを中心とした物納でしたが、原則として現金による金納制度に変わりました。
資金難に苦しんでいた明治政府にとって、これは大変な事業でした。収入の9割以上を占める地租つまり年貢は幕府時代のままで、納め方も各地バラバラな上に、米の価格の変動や輸送、保管、現金に換える手数や費用も大きな負担になっていたのです。
そこで明治政府は、歳入の安定や合理化、を図るために、明治6年(1873年)に地租改正を実施しました。地租改正では、全国の土地の地価を定めて土地の所有者には地券を発行して、その地価の3%を地租として現金で納めさせました。(表向きは地主が支払っていましたが、実際は小作農民が負担していたそうです)しかし納税者はごくわずかしかいませんでした。
また、江戸時代からの雑税1553種を整理し、新たに多少の間接税(印紙税、煙草税など)を設けて国税と地方税に分けました。税務署が全国に設置されたのも明治時代でした。
※地租改正 … 当時の米は価格が変動する相場制で、安定した税収が見込めないため、明治6年(1873年)の地租改正で米を生産する土地の価額に基づく課税(収益還元方式)が実施されましたこの収益還元方式は固定資産税など、現代の課税にも使われている課税理論です。
税金は、なぜ税金というのですか? 大化の改新以前の昔から、穀物が生活上重要なので、穀物を納めさせていたが、穀物では、保管や運搬に大変不便だったので、明治6年(1873年)に穀物に代わり、お金で納める(金納)ように制度を変えました(地租改正)。そこで(これ以降)、「税」をお金で納めることから「税金」と言うようになりました。 |
明治時代・後半
明治20年(1887年)になると、日本でも「所得税」が登場してきます。この当時、高額所得者は約12万人いました。高額納税者から議員も選ばれていたようです。
明治32年(1899年)には個人納税者が34万人にも増え、経済が発展し、国力が大きくなるにしたがって、法人に対しても課税され、明治の終わりには「地租」は国税収入の20%そこそこまで落ちます。もっとも伸長したのは「酒税」で、30%以上を占めました。
こうして明治末には少しずつ現在の税制に近い姿になっていきます。
※所得税 … 明治20年には、都市商工業者と農民との税負担の公平を図るため、英国などが採用していた所得税を導入しました。この所得税の課税対象は自営業者と給与所得者で、高額所得者(300円以上稼ぐ人)にしかかからなかったので、納税者イコール資産家の意味となることから『名誉税』ともいわれていました。当時の所得税は個人所得のみで、退職所得・譲渡所得・一時所得は偶発的所得として課税対象外であり、税率も、1%から3%の単純累進税率でした。
戦費調達などのため、明治時代に続いて、大正に入って清涼飲料税、営業収益税などの新税が設けられています。
この時期、もっとも変貌したのは「所得税」でした。大正末期には個人納税義務者は180万人に達し、昭和初期には「所得税」は国税収入の20%にせまります。
この動きは日本の経済体制が農業から商工業へ転換していることを意味するものでした。
それに応じて酒税・所得税・営業税(後の法人税のこと)が税収の中心になりました。そして地租と酒税を中心とした間接税、所得税が併存していた明治の税体系が、大正・昭和を通じて所得税を中心とした税体系に移行していくことになります。
(戦争時代)
昭和の初期は暗い戦争の時代でした。戦争を行うために増税が続き、新しい税金が創設されました。しかし「満州事変」をきっかけに税金は一変しました。
戦時の財源をまかなうために「揮発油税」「物品特別税」など新しい税金が昭和10年時代につぎつぎとつくられていったのです。
「太平洋戦争」になると、戦費調達のためますます増税が繰り返され、昭和15(1940)年には「源泉徴収制度」ができました。所得税支払者も昭和18年には1200万人に達し、ほとんどの人が所得税を支払うことになったのです。
昭和20年(1945年)以降、所得税は国税の30%強を占めるようになり、現在においても国税収入第一位の座を占めています。
戦後
戦後、日本はアメリカの統治下にはいり、アメリカの持ち込んだ民主主義は税制にも大きな変革をもたらします。
昭和21年、日本国憲法が公布され、教育・勤労にならぶ三大義務の一つとして「納税の義務」が設けられました。
昭和22年(1947年)には、納税者が自主的に税額を計算して申告する、「申告納税制度」が導入されました。
また、昭和25年(1950年)、『シャウプ勧告』に基づく税制改革が行われ、今日の日本の税制度の基本(法人税や所得税などの直接税を中心とし、地方の財源の充実を勧告)が形作られました。また、税をかける場合には、法律によらなければならないものと決められました。
このシャウプ勧告の目標は、当時の混乱した経済の復興を促進し、将来にわたって安定した税制の確立を目指す一方、公平な税制を実現し、税務行政の改革を行うことでした。
そして、最大の特徴は、所得の総合課税化であり、分離課税制度をできるだけ排除する所得課税の簡素化です。そして、現在の申告納税制度の前提となる「青色申告制度」も同年に、シャウプ勧告によって設けられました。
戦後経済の復興と発展を政策の最優先課題として歩み始めた日本は、その後高度成長路線に乗り税制も機能して順調に進んでいましたが、平成に入ると、経済成長も止まりバブル崩壊による税収不足も生じてきました。
こうした中で平成元年、消費税が導入されました。
経済情勢の変化によって直接税中心の税制から間接税に比重を移していく税制に日本も変わろうとしています。そして、今、高齢者社会や国際化などを迎え景気の低迷化というピンチに立たされており、税制も構造変化を求められています。
シャウプ勧告 日本の戦後の税制の基本的転換を図るために、昭和24年に占領軍総司令部の招聘により来日した、米国・コロンビア大学教授カール・S・シャウプ博士を中心とする7人の日本税制調査団により作成された、「シャウプ使節団日本税制報告書」のこと。 「シャウプ勧告」により、昭和24年(1949年)、「年末調整制度」ができ、サラリーマンは「源泉徴収と年末調整」、自営業は「申告制」になりました。さらに、世帯単位課税から個人単位課税へとかわりました。「シャウプ勧告」の理念は、「税は恒久的、安定的でなくてはならない」というものでしたので、直接税に重点が置かれました。 |
長い間、「税の歴史」に、辛抱強くおつき合いいただきありがとうございました。温故知新、というか、「税」・「租税」について、少しは興味を持っていただけましたでしょうか?
「租税の歴史は、人間社会の歴史であり、そして歴史そのもの」でもあります。そして税とは本来、「公共の費用(コスト)の国民負担(会費)」であり、そのコストは国民の幸せのために使われるべきものなのです。
次回から、直ぐに役に立つ情報をお届けしたいと思っています。
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